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カツラの葉っぱ 大好き!

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NHKスペシャル「中国文明の謎」

<NHKスペシャル「中国文明の謎」>
NHKスペシャル「中国文明の謎」3回シリーズが始まった。
臍が曲がった大使はどうしても「奢る中華も久しからず」という見方になるのだが・・・・
先ず番組HPを覗いてみましょう。

中国文明の謎より
宮殿二里頭遺跡の宮殿復元模型

広大な国土と膨大な人口。ますます存在感を高める中国。世界の古代「四大文明」の中でも、ただ一つ中国文明だけは、4000年以上にわたってほぼ同じ地域で同じ文明を維持して繁栄を続けてきた。その謎を、王朝の誕生から始皇帝の統一までの文明揺籃の時代に探るシリーズ。
第一集は最古の王朝「夏」。「中華」という言葉は、かつて「中夏」とも書かれた。「中華」の源流である「夏」王朝は、中国のいわば邪馬台国とも言える。今まで、最古の王朝と考えられていたのは「殷」だった。「夏」は「史記」などの文献に登場するものの考古学の裏付けがないことから、多くの研究者は「幻」と考えてきたが、近年の発掘で、ついに実在が確認された。


この番組を見ながらツイッターでメモしたのです。

NHKスペシャル「中国文明の謎」がはじまったでぇ・・・・ 奢る中華も久しからずということか。(コレ コレ)

「中国文明の謎」1: 二里頭では最古の青銅器が発掘されているようです。 旱魃、洪水の繰り返しのなか5種類の穀物の痕跡が発掘された。
昔々、新石器時代に夏王朝があったそうな。中華4千年の謎・・・
二里頭遺跡

「中国文明の謎」2: 貴婦人の遺骨から人民の反乱があったと推定、 宮殿の構造、宮廷儀礼の広場等は現存する紫禁城の構造に継承されていた。 中華4千年のメンツの基が発掘されているわけだ。

「中国文明の謎」3: 皇帝のシンボル 龍と青銅爵
統治システムの完成は・・・現在の混迷を見るかぎり、早すぎた文明だったのかも  

二里頭出土的青銅爵二里頭出土の青銅爵

「中国文明の謎」4: 第二の王朝殷は二里頭宮殿と統治システムを継承し・・・清王朝、中国共産党に至る。
この間に人民は一度も民主主義を経験していないのが、ある意味、すごいわけです。
posted at 21:51:16


ここで、松岡正剛『岡村秀典 夏王朝』から、中国の歴史教育を見てみましょう。

夏王朝より
教科書にはまた「中国歴史王朝順序歌」というものが載っていて、王朝の歴史をおぼえやすいような歌にしてある。こういうものだ。

   夏商と西周、東周は二期に分かれ、
   春秋と戦国、一統して秦・両漢、
   (三分して魏・蜀・呉)

   両晋は前後に延びて、南北朝並立す、
   陏唐五代と伝わり、宋・元・明・清のあと、
   (王朝はここに至って終わる)

中国の小学生が「夏商と西周、東周は二期に分かれ‥」というふうに、王朝の歴史を夏と商(殷)から暗記させられているのは、中国政府が夏王朝を紀元前2300年前後に成立した最初の王朝として、正式認知しているということである。
 しかし、その夏王朝が書物のなかに記されるのは、夏が殷(商)によって滅ぼされ、さらに1000年以上たった春秋戦国後半期の紀元前4世紀前後のことだった。
 夏・殷(商)・周と続いた周王朝が衰え、諸国が覇権をめぐって争いあった時代、戦国七雄(秦・趙・燕・斉・魏・韓・楚)の各国の王たちは自分の国こそが最も正当な中国であることを主張するため、祖先の系譜をどんどん古くさかのぼらせて、伝説的聖王にむすびつけていったのである。


夏王朝の遺跡が発掘されているからには、中国4千年の歴史は荒唐無稽とは言えないわけで・・・・
中国の歴史教育は単なる国威発揚では無かったわけで、少なくとも日本の戦前の神話教育より科学的と言えるようですね。

だけど・・・
清王朝から中国共産党への権力移行により、人民は民主主義を手に入れる絶好のチャンスを失ったわけで、中国4千年の歴史を通じて一度も民主主義を経験できなかったという事実が、凄いと思うのです。

13億にも増えた人民を統治するシステムとしては、皇帝とか共産党による統治にならざるをえないのか?という歴史的な疑問がわくわけですね。
(民主主義はいつになったら、中華の地に根づくのだろう?)、

共産党政権が進める「愛国無罪」という愛国主義教育であるが・・・・
中間層の権利意識も膨張しつつある。「新世代農民工」という巨大な矛盾も存在する。
今後、共産党の新しい皇帝は、そのかじ取りをどうするのでしょうね。

二里頭遺跡
二里頭文化



NHKスペシャル「中国文明の謎」シリーズの続きです。
3回シリーズのうち、今回は「漢字」がテーマであり興味深いが・・・・
臍が曲がった大使はどうしても「奢る中華も久しからず」という見方になるのです(笑)・・・・
先ず番組HPを覗いてみましょう。


中国文明の謎:第2集より
甲骨甲骨文字

 紀元前1600年頃、「夏」を倒して新しい王朝を建てたのが「殷(商)」である。
「殷」は漢字の原点である甲骨文字を生み出すなど高度な文化を持ち、強力な軍事力で周辺の部族を圧倒した。
 だが、その「殷」は、「牧野の戦い」と呼ばれる天下分け目の決戦で、「周」にあっけなく敗れ去る。勝敗を分けたのは何か?二つの王朝の差は何か?そこに「漢字の力」があった。


この番組を見ながらツイッターでメモしたのです。
(ビデオ録画すればいいのだが、ビデオ付きテレビは嫁さんがほぼ独占しているので、ツイッターでメモするしかないのです)

1:21時からNHKスペシャル「中国文明の謎」第2集がはじまるでぇ・・・・ 奢る中華も久しからずということか。(コレ コレ)

2:夏から殷への王朝交代を示す遺跡が2010年に発掘された。 約100年前にも殷墟で6万以上の甲骨、5000の青銅器が発掘されたが・・・ 甲骨に書かれた甲骨文字は現代でも解読できる文字であったことが、すごーい♪

3:甲骨で吉凶を占う場に王も立ち会った。 頭を切り落とした人骨は生贄であったが、最初の漢字はこのような特殊な環境でうまれた。
生贄とされたのは、歯のサンプル調査でキョウという部族であることがほぼ立証されたようです。
 殷墟以外でも甲骨が発見されたが、なぜ甲骨が流出したのか?

4:漢字が殷から周に流出したが、言葉が違う周で漢字が使われたのは表意文字であったからである。
まもなく、周は殷を倒す準備を進める。 3000年前の決戦が始まるが、周軍には八つの部族が参加していた。

5:70万人の殷軍は1日の戦闘で敗走したが・・・・ 柳家村で漢字が書かれた青銅器が発掘されたが、漢字の内容は他部族との契約であった。
周が他部族に出兵要求の漢字を書いた青銅器を送り合同軍を作ったことが、勝因となったようです。
つまり、当時すでに、漢字文化圏が形成されていたのである。

6:時は過ぎて満州族による清朝が興ったが・・・ 満州文字(表音文字)の普及を図ったが頓挫したので、表意文字の漢字を使わざるを得なかった。
posted at 21:51:12-2012.11.11

人類史上初めて、書き言葉としての漢字が契約に使用された♪
言語学的に見ると、目をみはるような事実に高揚するのである(サヨカ)

殷の時代に漢字文化圏が成立していたようだが・・・・このあたりが漢族が中華4000年の歴史と豪語する由縁なんでしょうね(笑)
現代の奢る漢族には腹に据えかねる大使ではあるが、こと漢字に関してはすごいと言わざるを得ないのです。

漢字のベクトルより甲骨文字のあたりを紹介します。

<象形文字の成立>p28~31
象形文字象形文字
 
 漢字には象形文字として作られたことを如実に示す字形が多くあって、特に甲骨文字の字形を見るとそのありさまがよくわかる。図版は甲骨文字に見える代表的な象形文字を表にしたものだが、まず動物ではいずれもその特徴が実にうまく絵画的に表現されている。
 このように象形の方法で作られた文字は動物の他にもたくさんあって、例えば「日」は太陽を、「月」は空に浮かぶ半月を形どったものだし、「木」は樹木が立って枝を張っているさまを、「門」は扉が閉じられているさまを、「車」は古代の戦車の形を、「歯」は大きく開けられた口から歯が見えているさまを、それぞれ形どったものである。

<最古の漢字>p61~62
 中国でいつごろから漢字が使われ始めたのか、正確なことはまだわかっていないが、現存するもっとも古い漢字は、第一章にもとりあげた殷の「甲骨文字」であり、それが使われていたのはだいたい前1300年から前1000年くらいにかけてであった。
 殷は古代国家の例にもれず神聖政治がおこなわれていた時代であり、その年の農作物の収穫や、戦争などの国家にとって非常に重要な事柄から、病気や出産など王の一族の身辺にかかわること、はては今夜雨が降るだろうかといった瑣末な事柄まで、ありとあらゆることに関して神意を問う占いがおこなわれた。この占いで得られた宣託や、その結果として起こった事象などを、占いに使った亀の甲羅や牛の骨などに鋭いナイフで刻みつけた。その時に使われた文字を「甲骨文字」といい、またほとんどが占いの内容を記したものであることから、その文章を「ト辞(ぼくじ)」と呼ぶ。
 
 甲骨文字は20世紀の初頭に突然世の中に存在が知られたもので、それまではそのような文字があったことすら伝えられていなかった。だから甲骨文字はまったく突然に世の中に登場したといえるのだが、しかしそれまでの中国では、殷や周の時代に作られた青銅器の銘文の研究を通じて、古代文字研究の分野に相当多量の蓄積があったから、発見の当初から甲骨文字はある程度は解読が可能だった。また甲骨はその後もたえまなく出土し続けたから、研究を進めるのに必要な量も十分に確保された。
 今世紀の中国における考古学の成果にはまことにめざましいものがあり、特に中華民国の歴史言語研究所が、1928年から37年までの10年間に、計15回にわたって取り組んだ河南省安陽市郊外の殷墟の発掘によって、大量の甲骨と、殷王のものと思われる大墓などが発見され、その研究を通じて、それまでは神秘と伝説のかなたにかすんでいた殷代の歴史が次々と明らかにされた。




NHKスペシャル「中国文明の謎」シリーズの続きです。
3回シリーズのうち、最終の今回は「始皇帝の野望」がテーマであり興味深いが・・・・臍が曲がった大使はどうしても「奢る中華も久しからず」という見方になるのです(笑)・・・・
先ず番組HPを覗いてみましょう。


中国文明の謎:第3集より
始皇帝始皇帝

 紀元前770年に始まる春秋戦国時代は、群雄が割拠した激しい戦乱の時代だった。
その戦乱を終わらせ、今の「中国」の原型を築いたのが「秦」の始皇帝である。
最近の研究で、「秦」はさまざまな勢力を支配するにあたって、
「夏」王朝の権威を巧みに利用していたことがわかってきた。
「中華(=夏)」という思想がどのように誕生したのかを探っていく。


この番組を見ながらツイッターでメモしたのです。
(ビデオ録画すればいいのだが、ビデオ付きテレビは嫁さんがほぼ独占しているので、ツイッターでメモするしかないのです)


1:21時からNHKスペシャル「中国文明の謎」第3集がはじまるでぇ・・・・ 奢る中華も久しからずということか。(コレ コレ)

2:毎朝、日の出に合わせて国旗掲揚、それを見る数万の群衆・・・・
中華とは何なのか?
兵馬俑が語る・・・中華の謎・・・・5色に彩色されていた2000年前の兵馬俑
5族を平定した始皇帝の中華帝国とは?・・・今回のイントロである。

3:夏王朝の謎の儀式
発掘された封泥が極廟(都の中心)の存在を示した。
皇帝という称号をつくり、自らを始皇帝と称した。
中心の中華に対して、東夷、西戎、南蛮、北狄
秦発祥の地(秦〇村)に馬車が埋葬されていた。

4:西戎の覇王はたびたび中原に向かうが全滅をくりかえした。
中原の国々が抱いた危機感が中華思想を生む。
夏王朝以来の伝統の儀式で結束を深めた(牛耳る:儀式で牛耳の血を飲む)
中原の国々を正統とし、周囲を野蛮と見るのが中華思想であるが、秦は反発した。

5:秦が中原の一角を落とした・・・
楚の国民の反発が、発想の転換を促した。
占領地域を含め同化することで子供を夏子とした。
なるほど、現在の新疆、チベット占領と同じだ。
中夏が中華に変わる。

6:金印が中華の一員であり冊封国であることの証しとした。
秦の都は天体に合わせて都市計画された。極廟は北極星に重なった。
中華とは宇宙の中心とは畏れ入ったものだ。

7:1911年辛亥革命により最後の王朝が滅んだが・・・・
5族の同化をもって中華民族とする・・・毛沢東もこの思想を継承した。
始皇帝が生んだ中華という世界観は4000年の歴史を経て今も生きている。
・・・・奢る中華と言われる由縁なんでしょう。(大使談)
posted at 21:49:49


なるほど、秦の膨張主義が中華思想を生んだということがよく分かる内容となっていました。
これが、今も帝政を敷く中国共産党の覇権主義に繋がっているんでしょうね。
(コレコレ、その解釈はバイアスがかかっておるぞよ)

東夷の国の民として、冊封と辺境についてお勉強です。

wikipedia冊封より
 冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。

 冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できること、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、当時朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことが出来ることなどがあった。また冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。



wikipedia辛亥革命より
<チベット・モンゴル・満洲・東トルキスタンなどの辺境 >
1913年1月11日、チベット・モンゴルは相互に独立承認を行い、外部からの攻撃に対しては相互に援助しあうことなどが約された。チベットは1949年に人民解放軍の侵攻を受けるまで独立を維持した。しかし、中華民国は南モンゴルを支配下に組み込んだためソビエトの支援を受けた北モンゴルのみが独立を達成できた。1930年代に入ると満洲では満洲国が建国され、東トルキスタンでは東トルキスタン共和国が建国されるなどしたが、漢民族による国共内戦が終結し中華人民共和国が建国されると、辛亥革命後に孫文が提唱した通りに多くの周辺民族地域を中国に組み込むことに成功した。






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